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noteメンバーシップを2024年7月から始めました。Keiが日常的に実践するミクロレベルのソーシャルワークで得た失敗経験を共有し、同じような失敗を予防していく狙いがあります。Keiは学者ではないので体験談が中心ですが、必ずみなさんの実践に還元できます。
みなさんこんにちはKeiです。
救命救急センターが設置されている病院で医療ソーシャルワーカーとして働いている社会福祉士9年目です。
社会福祉士取得後、最速で認定医療ソーシャルワーカーと救急認定ソーシャルワーカーを取得しました。
noteとX (フォロワー2,400人以上)を500日以上毎日更新しています。
ソーシャルワーク関連のブログも発信中です。
本日は、『知識を増やしても、なぜソーシャルワーク実践はラクにならないのか』というテーマを深掘りします。
知識を積むほど、生きづらくなる
- 意思決定支援
- アセスメント
- 地域の社会資源開拓
- 多職種連携
- 面接技術
私たちは日々、上記のような知識を仕入れています。
経験を積むことで、カンファレンスでは状況に応じた的確な言葉を選べるようになり、カルテ記載も要点を押さえて書けるようになります。
そして、理論を学び続けることで、自分の実践を言語化し、根拠をもって説明できる力が養われます。
研修や日々の振り返りを重ねるほど、支援を表現するための語彙は増えていきます。
しかし、どれだけ経験を積んでも、目の前のクライエントとの面接の負担が減るわけではありません。
経験や知識が増えるほど、正しさを届ける難しさに直面することもあります。
先日も、こんな面接がありました。
患者さんの家族に、在宅復帰できない理由を、制度と根拠を並べて丁寧に説明しました。
理屈は通っていたはずなのですが、家族の表情は、どんどん硬くなっていきました。
後になって振り返ると、あの面接で問われていたのは、「自分の説明が正しかったかどうか」ではなく、家族が安心して本音を話せる関係を築けていたかどうかでした。
知識が増えるほど伝えたいことは増えていきます。
一方で、自分の知識が増えることで、クライエントの本音に耳を傾ける余白を失ってしまうことがあります。
これは、決して珍しいことではありません。ソーシャルワーカーに限らず、学び続ける人ほど、こうした壁にぶつかります。
資格を取り、研修を受け、事例検討を重ねても、目の前のクライエントと向き合う場面では、知識だけでは解決できない難しさに直面します。
その違和感を見て見ぬふりしないことが、大切な一歩になります。
知識が増えることと、人を理解することは決して同じではないと、もっと早く気づけていればよかったです。
なぜ知識にしがみつくのか
伝わらない知識を振りかざしても、気持ちいいのは自分だけです。
しかし、知識やフレームワークを手放せば、自分が何をしている専門職なのか説明する拠り所まで失ってしまうように感じることがあります。
横文字の難しそうな言葉を使えば、少なくとも「それっぽいソーシャルワーカー」には見えます。
#アイデンティティとかね
実際、若手の頃の私は、この「それっぽいソーシャルワーカー」のふるまいに、そこそこ救われていました。
本当は伝わっていないと薄々気づいていても、知識という鎧を脱ぐことができない。それは弱さではなく、方角を見失うことへの恐れから生まれる、ごく自然な防衛反応なのです。
私自身、入退院支援加算1を推進して組織を動かしていた頃は、知識という鎧をまとい、他職種には伝わりにくい言葉で話してしまうことが少なくありませんでした。

知識と信頼は、別の回路で動いている
知識は、相手を分析する力にはなりますが、信頼を築く力にはなりません。
信頼とは、「理解した」と自分が思うことではなく、「理解されている」と相手が感じることだからです。
怒りは論理的矛盾ではなく、「自分は軽く扱われている」と感じたときに生まれます。信頼もまた、論理では積み上がりません。
知識を積むことに安心し、自分の正しさを証明することへ意識が向いた瞬間、クライエントは見えなくなり、表情や仕草などといった小さな変化を見落としてしまいます。
これは、真面目に学んできたソーシャルワーカーほど、陥りやすい罠です。学べば学ぶほど、目の前の一人が見えにくくなるという逆説です。
多職種連携の場でも、同じことが起きます。
医師や看護師に正論を重ねるほど、「このソーシャルワーカーに頼んでも話が前に進まない」という空気が生まれてしまうことがあります。
癒着、つまり属人的な指名力は、論理の量では買えません。
同じ頼みごとでも、「このソーシャルワーカーに頼まれたら仕方ない」と思わせる何かは、知識の外側にあります。

これは感覚的な話ではありません。
人と環境の相互作用を扱う専門職である以上、環境には当然「関係性」も含まれます。
知識は、クライエントという個人を理解するための道具にはなりますが、その人が置かれている関係性そのものを整えるには、知識だけでは足りません。
ここを取り違えると、いくら学んでも、実践は苦しくなる一方です。
計画は「知識」で行動は「間合い」で。
私のソーシャルワーク実践の軸は、「悲観的に計画し、楽観的に行動する」です。
悲観的に計画するときに使うのは、「知識」です。
起こり得る事態を想像し、多職種の力関係を読み、制度の限界を知っておく。
ここで知識をおろそかにすると、現場で足をすくわれます。
退院支援でも、根拠のない楽観は、そのままクライエントの不利益に直結するため、計画の段階では、知識を出し惜しみしません。
しかし、いざクライエントの前に立つとき、使うのは知識ではなく、その場の「間合い」です。
どれだけ正しい制度説明を用意していても、クライエントが「自分は軽く扱われている」と感じた瞬間、その正しさは一切届かなくなります。
知識という鎧は、計画の段階では最強の装備ですが、行動の段階で同じ鎧に頼ろうとすると、脚が育ちません。
鎧を着る場面と、脚一本で立つ場面をはっきり分けることが、知識に依存しないソーシャルワーカーの条件です。
知識はあくまでも地図です。
どれだけ知識を身に付けても、実際にその土地を歩く脚は、鍛えられないのです。
学び続けること自体は、間違いではありません。
問題は、学ぶほど、自分の脚で歩く力が弱くなっていることに気づかないまま走り続けてしまうことです。
鎧と脚、両方あって良いのですが、使い所を見失った瞬間から、知識は生きやすさを奪う道具に変わります。
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ではまた。


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